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読む 鎌倉街道・朝夷奈切通 第三話・石地蔵~大切通

読む 鎌倉街道・朝夷奈切通
第三話・石地蔵~大切通

鎌倉街道・朝夷奈切通-3

読む 鎌倉街道・朝夷奈切通

石地蔵を後にして、大切通へ向かいます。大切通はこの峠にあり、それまでの道はゆるやかな登り道となります。ここの道も左右に切岩状の岩壁があります。鎌倉には鎌倉七口切通と言われるように7つの切通があります。そもそも、何故この様なほかの地域には見られない独特な切通しが、この鎌倉に誕生したのでしょうか? その原因は、今からさかのぼること830年前の歴史的できことに由来します。1180年源頼朝が平家打倒の兵を挙げ、石橋山の戦いに敗れ、安房国(あわのくに)千葉県館山(たてやま)に逃げたおり、 吾妻鏡によると千葉常胤(ちばつねたね)が頼朝に進言しました「安房国(あわのくに)は、敵から攻められやすく防ぐには容易ではない、防ぐには相模(さがみ)の国鎌倉に拠を構えるべきである」 と頼朝は、これを受け入れ三方が山に囲まれ、一方が海にひらけた天然の城鎌倉に本拠地を定めたと言います。このことは、逆に鎌倉と地域の交通の便を図るために、その三方の山を掘り削り切通しという独特の道が誕生したということです。この時代、幹線の道は、所沢につながる上の道(かみのみち)ここには化粧坂(けわいざか)切通が現存します。府中へとつながる中の道、ここには亀ヶ谷(かめがやつ)切通が残っています。浅草へつながる下の道(しものみち)。秩父へつながる山の道、京へつながる極楽寺切通が残る京の道。この朝夷奈切通が残る六浦から帷子(かたびら)までの金沢道(かなざわどう)名越切通(なごえきりどおし)が残る浦賀道、この道は東京湾を越え市原までの上総道(かずさのみち)。そして三崎への三崎道の8本の道が鎌倉を扇の要として放射状に伸びました。歴史を紹介していると、左手に供養塔が見えてきました。南阿弥陀仏(なんあみだぶつ)が刻まれています。この供養塔は江戸時代のもので、その時代にも道普請(みちぶしん)がされていたことを物語っています。このあたりは峠近くで、視界も開け、土道にかわっていました。この先が峠の頂上です。大切通が眼にはいってきました。これは大きな岩の壁です。その道に両側に大きな岩が設けられていて、峠の施設に関係したのでしょうか。大切通は、高さが18メートルほどで垂直に切り落とされています。その岩壁に仏像が彫られていました。なんの仏様か?いつ?誰が?すべてはわかりませんが、そのお姿には時を刻んだ人々の素朴な祈りを感じました。思わず手を合わせました。合掌。またその岩壁には規則正しく丸い穴があけられていました。何でしょう。木の梁(はり)を通した穴なのでしょうか。目の前に大きな木の空想の関所が広がりました。この大切通の頂上には、15メートル四方の平場があるということで、兵を配置したりできる空間です。岩を削った跡が、800年の時を越えて、現在を生きる私に、当時の武家社会が、新時代、武家政治幕開けという生き生きとした鎌倉武士達の高揚感、息吹(いぶき)を感じました。次回は、最終話小切通の道を紹介します。