立夏の頃 新緑の町石道を行く
立夏(五月五日頃)
新緑、さわやかな風。この頃より、爽快な夏の気が立ち初め、日、一日と夏に向かう。
今日、五月五日は、言わずと知れた子どもの日。暦の上では立夏となります。私も子ども心にかえって山歩きを楽しみたいと思って家を出ました。
九度山橋を渡ったところで、紀の川と丹生川が合流しており、川に渡された百五十匹の鯉のぼりが風にはためいていました。雨引山を背景にして今日の一枚目をパチリ。
九度山町の真田祭りも盛大に執り行われることでしょう。
早春の頃に芽吹いた柿の若葉がその色合いを濃くし、この時期には、九度山町の裾野一体がやさしい萌葱色に染まります。
百七十八町石から百五十八町石の間、多くの町石は柿畑の中に建っています。ここ九度山町は、日本一の富有柿の産地なのです。
春になると、冬の間に剪定された枝々から一斉に若葉が芽吹き、遠目からも春の到来を告げてくれます。複雑な枝振りが空をバックにして張り付いていたのがうそのようです。
初夏の光を通して風に揺らぐ柿の若葉は、新緑の中でも特に明るく見えます。町石も若葉とともに蘇ってくるような気がします。
その町石の足元には、オオイヌノフグリ、タネツケバナ、タンポポ、カラスノエンドウ、ナズナなどが細かい花を咲かせており、里山の雰囲気をたっぷり味わうことができました。
また、柿の木に混じって、ミカンの木も植えられています。折りしも、ミカンの花が咲いており、甘い香りを一面に漂わせていました。
実りの頃になると、百六十三町石付近で、ミカンや柿が一袋百円で売られています。そこには誰もいなくて、買いたい人は料金箱に硬貨を勝手に放り込むシステムになっています。町石道のオアシスです。
この百六十三町石付近から紀の川の蛇行した流れが一望でき、小田井堰や橋本橋まで見通せます。足場もいいので紀の川を背景にして町石と記念写真を撮る人も多く見かけます。 また、左手を見上げるとアンテナ塔がそびえ立ち、鉄塔と町石という新旧のコントラストがおもしろく感じられました。
このスポットを少し行くと、道が十字に交わっており、この交差点には「右こうや三里あまの一里 左こさわ一里こうやちかみち」と刻まれた川石があります。鎌倉時代に今の町石道が作られるまでは、ここを左に折れ、笠木峠まで続いた木製卒塔婆の町石道が存在したと言われます。
柿若葉の区域を通り越すと、町石道は山道にさしかかります。杉の植林を抜けて、百五十一町石にきた時、雑木林の新緑に思わず見とれました。薄暗い杉林の中を通ってきただけに、新緑が一際鮮やかに目に映ったのでしょう。
陽の光に透けて見える新緑の彩りは、「ハッとする美しさ」という表現がピッタリの情景でした。
俳句の世界には、この時期の木々を表して「新樹」という言葉があるそうですが、まさに生まれ変わって新しくなった木のイメージをうまくとらえた言葉だと思います。
とくに、百三十一町石から百二十町石の間、また、百五町石から八十八町石の間などは広葉樹の雑木林となっており、若葉色のトンネルの中を町石道が通っています。
新緑の中に潜り込んだとき、無意識に歩くスピードが落ちます。
時には立ち止まって上を向き、若葉のグラデーションを目に焼き付け、思い切り深呼吸をして肺の隅々までフィトンチッドに満ちた空気を吸い込みます。
どこからともなく聞こえてくるウグイスの鳴き声が耳に快く響き、心が癒される思いです。
樹木により、その緑の美しさは異なりますが、初夏の若葉はすべて艶やかで新鮮です。中でも朴の木の若葉は、その大きさといい、色合いといい、胸に迫るものがあります。
「朴若葉 胎蔵界の風ふけり」の句を肌で感じながら歩を進めました。
四十町石から少し上ったところに高野山の展望台があります。冬のある日、ここにさしかかったとき、一面にホオの落ち葉が降り敷いていたのを思い出し、上を見上げると見事なホオの葉が風に揺らめいていました。
余談になりますが、ホオには「包む」という意味があり、朴の木という名は、大きな葉に食物を盛ったことに由来します。
葉の上に味噌をのせて、ネギとショウガを混ぜ、火にかけたものは飛弾の名物「朴葉味噌」として有名です。
百十町石あたりから気になっていたのですが、道端の落ち葉の中に小さくて可憐な植物が、その茎の先に白い花を付けてたくさん咲いていました。
時には、かたまって咲いている所もあり、カメラを近づけて何枚かを写真に収めました。帰ってから図鑑で調べてみるとチゴユリ(稚児百合)という花でした。小さく可愛い感じを稚児にたとえ名付けられたそうです。葉の形をよく見ると、確かにユリ科の植物であるのがよく分かります。枯れ葉の中にけなげに咲いているのがいじらしく思えました。
二十五町石付近で首を傾げる現象に行き当たりました。
葉の大きさも、色、形ともにチゴユリとほとんど変わらないのに、花の形がまったく違うものが群れて咲いていたのです。
その形が寺の屋根につるされた宝ちゃくに似ていることから、ホウチャクソウと呼ばれていることを後で知りました。やはりチゴユリの一種なのだそうです。
そしてもう一つ、この時期になって目を引くのがマムシソウ(蝮草)です。
よく観察してみると、この町石道には大別して二種類のマムシソウあります。別名ウラシマソウ(浦島草)と呼ばれるものと、マイヅルテンナンショウ(舞鶴天南星)と呼ばれる二種類です。
どちらも仏炎苞と呼ばれる花の部分が、マムシが首をもたげたように見えることからマムシクサと呼ばれるのでしょう。日当たりの悪い林下で見ると、そのグロテスクな姿が気味悪く思えますし、秋になると赤く固まった実も毒々しい感じがします。
部分的にはそのように見えても、全体を見ると、葉の形が羽根を広げた舞鶴のように見える所からマイヅルという名を併せ持つのはこの花にとっても嬉しいことです。しかし、マムシとマイヅルではあまりにその落差が大きく、苦笑せざるを得ません。
私自身においても、最初の頃はマムシ(蝮)に見えましたが、何枚も写真に撮るにつれてマイヅル(舞鶴)に見えてきたから不思議です。
山道を歩いていると思わぬ出来事に出くわすことがよくあります。
六十五町石付近に来て、一文字蝶がひらひら飛んでいるのを見つけました。近くの道の上に止まったので早速カメラを向けました。羽根を広げた決定的瞬間が撮れず、じっとねらっていると、そのうち私の靴の上に止まったのです。それだけでなく、恐れる様子もなく、ズボンやシャツに飛び移り、一層撮りにくい状態になりました。
しかし、私としてもすっかり信用されているようで悪い気はしません。逃げられるのが惜しくて、じっと固まってしまった自分の姿がおかしく思えました。この様子をカメラに収められないのが残念です。
六十町石に来て、町石道は高野山道路と交差します。その昔、高野山道路が有料だった頃、矢立料金所があったところです。
ここで赤とピンクのツツジが二本寄り添って、咲いていました。その色鮮やかさに惹かれて何枚も写真に収めました。
六十町石の直ぐとなりには、ムクゲ(木槿)の木が植えられています。七月になると、やさしい色の花を付けることでしょう。
町石と合わせ撮りするのを今から楽しみにしています。
山の谷に渡された幾つかの木橋を渡ったとき、道の際に下輪が短くて、かわいい町石が目に飛び込んできます。二十一町石です。
他のものは地上の部分だけでもゆうに二メートルはあり、見上げながらその端を通り過ぎるのですが、この町石に限っては腰の高さくらいまでしかなく、思わず頭を撫でたい誘惑にかられます。
町石を知るほどに、それぞれがそれぞれの表情を持って見え、興味深いものとなってきました。風化の度合い、刻まれた字体の違い、周りの環境の差、日の当たり具合などにより、様々に変化します。これからも何百年という月日の間、ひたすら立ち続けることでしょう。そして、およそ百メートルおきに立ちながら、この道を歩く人たちに「次の石まで頑張れよ」と無言の励ましを与え続けてくれることでしょう。
古え人は一つひとつの町石に手を合わせ、極楽浄土への願いを込めて上ったのでしょうが、最近は手を合わせる人の姿を見たことはありません。しかし、石に日が当たり、照り輝いているときなどは思わず敬虔な気持ちにさせられます。
手を触れるとザラッとした感触があり、歴史が溶け込んだ味わいが伝わってきます。
最後の上り道を息せき切って大門まで辿り着きました。山上についてまず私を迎えてくれたのがシャクナゲ(石楠花)の花です。
シャクナゲは、もともと高山性の植物です。高野山の冷涼な空気の中で、透明感のあるピンクの花を幾つも咲かせていました。
まずは大門付近のシャクナゲを写真に収めたあと、垣根の中にある二町石をシャクナゲと重ねて撮りたくて、柵にかじりつきました。
左手で柵を支え、右手に持ったカメラを思い切り上に掲げて、つま先立ちになり、何とか撮り終えましたが、自分ながらにおかしな格好だったと思います。
普段ものぐさな私が、写真を撮るためにはどんな苦労も厭いません。
シャクナゲと言えば、樹齢二百年を誇る金剛三昧院のシャクナゲが有名です。
この日、せっかくの機会でもあるので高野山内まで足を延ばし、三昧院を訪れてみました。山門をくぐると直ぐシャクナゲのピンクの固まりが目に飛び込んできます。門に足を踏み入れた人は、ほとんど例外なく「オオツ」という驚きの声を発します。境内の縁側に座って、しばしシャクナゲ三昧に浸ってきました。ここに、写真でその一端をお届けします。
立夏のこの季節、山は新緑に染まり、木々の霊気に満たされながら町石道を上ります。いつしか身体は満足感に満たされ、今日、この道を歩けた喜びが広がってきます。
来週もまた上ることにしよう、と心に決めて山を下りました。
笹田義美先生のプロフィール
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世界遺産登録への道「四季の高野山町石道」
- 著者
- 笹田 義美
- 定価
- 2,800円(税込)
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