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読む 鎌倉街道・朝夷奈切通 第二話・三郎の滝~石地蔵

読む 鎌倉街道・朝夷奈切通
第二話・三郎の滝~石地蔵

鎌倉街道・朝夷奈切通-2

読む 鎌倉街道・朝夷奈切通

朝夷奈(あさいな)三郎から名付けられた三郎の滝を出発点に、いよいよ朝夷奈(あさいな)切通に入っていきます。わくわくします。ここの道は、岩盤を平らにしたもので、左右には岩の壁です。そしてその道には湧き水を流す側溝(そっこう)が設けられています。ここの道は鎌倉時代当初の趣が残っている風景でしょうか?思いをめぐらせました。それにしても、ウォーカーステーションTVの歴史街道古道シリーズでも、岩盤の道は初めてです。非常にめずらしい歴史古道です。道に湧き水が流れ出してきています。鎌倉市側の朝夷奈(あさいな)切通はこのようなぬかるんだ道が多くウォーキングには注意が必要です。この山の岩を切開いた朝夷奈(あさいな)切通は、何故鎌倉時代に作られたのでしょうか。すこしその歴史をさかのぼってみました。源頼朝が開いた鎌倉幕府には、もともと和賀江島(わかえじま)湊(みなと)という人工の港があり、幕府の物資交易の拠点でしたが、水深が浅く港としては難点があり、幕府としては水深が深い港が必要でした。その中で、鎌倉からはすこし離れているがいい港が六浦にはありました。また、当時六浦には良質の塩田もあり、この塩を鎌倉に運ぶにも幅の広い道が必要でした。そして、政治的にも当時有力な勢力三浦氏をおさえる必要もあり、六浦への道は大変重要かつ急務でした。「吾妻鏡」には、仁治2年1241年「六浦の路作りの事、この間、すこぶるカイ緩(かん)す。今日前武州監臨(ぜんぶしゅうかんりん)したまひ、御乗馬をもって土石を運ばしめたまふ」とあり、前武州とは、執権北条泰時のことで、道作りを見に来ると進んでいないので、自らも馬で土石を運んだと記録されています。この事からも当時この道を急いで作っていたことがわかります。それ程この朝夷奈(あさいな)切通は、経済的にも軍事的にも非常に重要な道であったことがうかがえます。この朝夷奈(あさいな)切通は、昭和31年に県道金沢・鎌倉線が出きるまで使われていていました。県道がちょうど北側の尾根を通ったことで、運よく残ったのです。この辺りの道は、土道で右側には切岸状(せつがんじょう)の岩崖(いわがけ)が見事に残っています。朝夷奈切通は鎌倉時代天下の大道で、今で言うと国道1号線だったのです。鎌倉に今も残る切通しの中では、幅の広さ、道の長さといい鎌倉街道七口切通し1番の道です。当時この道を生活物資を積んだ荷車が列をなして行きかったのでしょう。ここからはまた、岩盤の道です。左右にせまる岩崖の間を抜ける、他の古道にはない、ここならではのウォーキングです。この途中で出会いましたウォーキングのグループのみなさんにお話をお伺いしました。この後、皆さんとは大船駅へのバスも同行させていただきました。このあたりの道は、岩を平らに削り、道幅も一定の広さに作られて、排水のために左右に側溝が設けられている真っ直ぐな石の道です。朝夷奈切通は、鎌倉と六浦との往還路(おうかんろ)の役割と防御という城郭の役割を持っていて、ちょうどこの崖の左右には平地を設けていることから、有事の際には幕府が兵士を配置したとのことです。朝夷奈切通を訪ねてみると、鎌倉のお寺さんだけでなく、それにも勝る魅力をひめていることが、雄大な景色から感じさせられます。感動の道です。前方左手に、石地蔵が見えてきました。「新編相模国風土記」によると「峠坂にて、延宝3年1676年に道普請をしていた僧が亡くなられたので、その年号を刻んでお地蔵様を立てた」と伝えられています。江戸時代にもこの道をなおしていたことが伺えます。鎌倉から江戸昭和とこの朝夷奈切通は時代をこえて人々がいきかった道です。今はひっそりと、時の喧騒から離れゆったりと時を楽しんでいるかのようです。おじ蔵様にみかんと白い花が供えられていました。その美しさが印象的でした。次回は、朝夷奈切通最大のポイント大切通の道を紹介します。