読む 鎌倉街道・朝夷奈切通
第四話・大切通~熊野神社~小切通
鎌倉街道・朝夷奈切通-4<大切通~熊野神社~小切通>を動画で再生
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大切通を後にして小切通へ向かいます。右側掘り刻んだのみのあとがくっきりと残る岩壁(いわかべ)を見ながら進むと、左にほこらのような空洞があります。一部分直角に掘られていて何かの施設があったのでしょうか、どんな物があったのか興味をひかれます。右側のふもとに新しく作られた石碑、ここからが横浜と書かれています。右に切岩状の壁をみながら進みます。このあたりの道は、鎌倉市側の湧き水が出ている道とは異なり、かわいた土道です。前方に立ちはだかるような大きな岩壁、その下の道は岩がむきだしになっています。この道がよく使われていた頃は、平坦な道であったであろうと考えると、これは雨によって土が流され、岩がその下から現れたということでしょうか。800年という長い時間が道を刻んだと言うことかもしれません。一本道かと思えた道も、分岐点にきました。右に行けば熊野神社、まっすぐが順路ですが、熊野神社に立ち寄ることにしました。右かまくら道、左熊野神社の道しるべがあります。この道の入り口も左右が掘り刻まれたみちです。人間の強い意思が伝わってきました。しばらく進むと、この風景はまさに、和歌山県にある熊野三山に詣でる世界遺産熊野古道の風景そのものです。鎌倉時代初期には、和歌山県にある熊野三山、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社への熊野詣は、上皇、貴族、庶民にいたるまで、蟻の熊野詣と例えられたように連なって参詣しました。今私は、熊野の山に入って熊野古道を歩いているのではという錯覚に陥りました。この道も素晴らしい道です。ところで、この鎌倉熊野神社は、鎌倉の鬼門にあたる場所でちょうど北東に位置しています。当時陰陽道(おんみょうどう)では、鬼が出入りする方角と考えられていました。源頼朝は、鎌倉の鬼門にあたるこの場所に、熊野三山大明神を勧請(かんじょう)して、北条泰時が社殿を建立したと伝えられています。これと同じように、京都の平安京では、鬼門の方角に延暦寺がおかれています。この道は、切り通しの岩盤の道とは異なり、土道で平坦です。杉木立の間に鳥居が見えてきました。森の中に眠るように佇む熊野神社です。石段を登って行くと拝殿です。この神社の周辺の山林には、不自然なほど多くの平場(ひらば)があるということです。熊野神社から道順にもどり、小切通を目指します。このあたりの道は、鎌倉市側の道とは異なり、山の尾根を平行に通っていてぬかるんではいません。そして、道幅は二間弱とすこし狭くなっています。鎌倉は現在でも国際観光地ですが、江戸時代でも、観光地であったようです。江戸から下って金沢八景を見て、朝夷奈切通しを通って鎌倉の史跡を訪ね、江ノ島の弁財天にお参りするという観光ルートがもてはやされたということです。この道を江戸期、武士から庶民までワイワイと言いながら歩いたのでしょう。しかし、今は静寂がつつむ歴史の道です。ここの左右のかべには、堀刻まれたのみの跡が残っています。そして、その間の道には、落ち葉がつもっています。まるで、800年の時間をさかのぼって歩いているような「不思議さ」が残るウォーキングです。この道は日本人の文化、魂のしみこんだ道です。なるほど、日本の歴史の道100選の一つだけのことはあります。「すばらしい!」の一言につきます。前方に道をふさぐように壁がたちはだかっています。ここが、峠の大切通にたいして、東の小切通です。両脇の切通が深く、歩くものに迫ってきます。道幅も狭くなっています。これが小切通です。次回は、小切通から庚申塚をへて、朝夷奈バス停までの道を紹介します。