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読む 鎌倉街道・朝夷奈切通 第一話・鶴岡八幡宮~三郎の滝

読む 鎌倉街道・朝夷奈切通
第一話・鶴岡八幡宮~三郎の滝

鎌倉街道・朝夷奈切通-1

読む 鎌倉街道・朝夷奈切通

鎌倉街道朝夷奈(あさいな)切通しは、鎌倉時代、六浦(むつうら)へ通じる道として発達しました。鶴岡(つるがおか)八幡宮から東へ向かい光触寺の塩嘗地蔵(しおなめじぞう)をへて、切通し庚申塚(こうしんずか)、朝夷奈三郎にちなんで名づけられた三郎の滝、この滝からが朝夷奈切通しです。坂道をつくった時につくられた石地蔵、大切通し、その崖に彫られている仏像のレリーフをへて、小切通しの道です。この道は現在、鎌倉市から横浜市金沢地区へ通じる道で、金沢街道とも言われています。鎌倉街道朝夷奈(あさいな)切通ウォーキングの出発点となる鶴岡八幡宮は、鎌倉八幡宮とも呼ばれています。1063年に河内国現在の大坂羽曳野市(はびきのし)を本拠地とする河内源氏二代目の源頼義(みなもとよりよし)が、前九年の役での戦勝を祈願して、石清水(いわしみず)八幡宮を鎌倉の由比郷鶴岡に勧請(かんじょう)したのが始まりです。前方に見えているのが鶴岡八幡宮の本殿です。境内を東西に走るここが三の鳥居の横大路で、鎌倉街道朝夷奈切通しへはこの道を東へ進みます。鳥居をくぐると、清廉潔白な人柄で「坂東(ばんどう)武士の鑑(かがみ)」と言われた畠山重忠(しげただ)の館跡を示す石碑があります。畠山重忠には伝説が残されていて、謀略で討たれた重忠が死の直前「わが心正かば この矢にて枝葉を生じ 繁茂(はんも)せよ」と矢を地に突き刺した。やがてこの矢は、根付き年々2本ずつ生えて茂り続け「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったという。畠山重忠は、後の人々にも慕われ続けています。突き当りを右へ曲がると県道204号線に出ます。この道を左にとって進むとバス停大学前です。今回は大学前バス停から十二所(じゅうにそ)バス停までの間は、バスに乗りました。金沢八景駅もしくは太刀洗行きのバスに乗って約10分十二所バス停で下車します。この県道を渡って、すぐの所が最初の分岐点です。真っ直ぐ進むと鎌倉街道朝夷奈(あさいな)切通しですが、ちょっと寄り道して光触寺(こうそくじ)を訪ねます。しばらく歩いていると前方に山門が見えてきました。光触寺は一遍上人(いぺんしょうにん)が開基(かいき)したお寺で、本尊は阿弥陀三尊像で、重要文化財に指定されています。本堂の右に小さな地蔵堂があります。その中にお地蔵さんが祀られています。このお地蔵さんは、もとは光触寺橋の鎌倉街道沿いの道にあって、昔、六浦の塩商人が初穂として塩をおそなえして、帰り方、見ると無くなっていたことから、「お地蔵さんがなめた」と言うことで、塩なめ地蔵とよばれるようになったといいます。鎌倉街道にもどって進みます。先程のお地蔵さん、そういえばなんとなく「しょっぱい」お顔をしていました。おもわず思い出し笑いをして心が温かくなりました。しばらくはこの県道の歩道を歩きます。右側から太刀洗川の清流音を聞きながら歩いていると、次の分岐点です。ここには標識が出ていて、右へ550メートル朝夷奈(あさいな)切通しとあります。この角を右へ入ります。しばらくは住宅街の道を歩くことになります。右側につたのからまる石垣、ちょうどこの左手上に切通し庚申塚(こうしんづか)があります。私は見過ごしてしまい、この映像は翌日とり直した物です。高さが4メートルほどあり、塁壁状遺構(るいへきじょういこう)の名残があり、この一帯は朝夷奈(あさいな)砦跡として遺跡に指定されています。この庚申塚を左手に見て進みます。左右に住宅がある舗装された道をしばらく歩きます。前方に分岐点、この道を直進します。ここからは土の道です。左に太刀洗川右に山を削った跡のある壁が現れます。しばらくは太刀洗川にそって歩きます。このあたりは、切通しの風景が色濃くなってきました。しばらく歩いてゆくと、太刀洗川に竹筒から水が流れています。これが鎌倉5名水の一つ太刀洗い水です。吾妻鏡では、1183年梶原景時(かじわらかげとき)は、平広常(たいらのひろつね)を斬った血刀をこの水で洗ったと伝えられています。ここも気おつけないと見逃してしまいます。太刀洗水を左手に見て進んでいくと、前方に分岐点が現れます。左が朝夷奈(あさいな)切通しです。右側の道は、平広常の屋敷があった七曲坂です。ちょうどその分岐点に今回のゴール三郎の滝があります。和田義盛の三男で巴御前を母にもつ朝夷奈三郎義秀が太刀で、一日一夜にて、切り開いた道であると伝えられ、道は朝夷奈(あさいな)切通し、滝は三郎滝と名づけられたと言います。なるほどなるほど、なかなか面白い逸話です。ここからが朝夷奈(あさいな)切通しのスタートです。次回は、三郎滝から石地蔵までの道を紹介します。